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那谷寺について

清らかである白き神々あの座「しらやま」に魂が昇り、地上に回帰する

加賀には古くから白山信仰が根付き、自然の神を崇めてきました。
自然そのものが生きとし生けるものにつながり、その中で人は生かされて、ここに在るのです。
境内にそばだつ岩山の多くの洞窟は、魂がよみがえり、白く清められる聖地。
美しい自然に融けこんでいく「私」を感じるところなのです。
緑樹の影や苔むす参道を通って、四季のうつろいを感じていただけますように。

合掌

開創の物語

この地は弥生時代より管玉の材料である碧玉(へきぎょく)の産地でした。財部(たからべ)一族が住んでいて、洞窟は祭祀場でもあったでしょう。1300年の歴史を遡れば、養老元年(717年)に泰澄が那谷寺を創建したと伝えられています。ここでは那谷寺の歴史に関わった人を紹介します。

白鳳3年(682年)6月、越前(福井)に誕生。36歳の時に天女に誘われて養老元年(717年)白山へ禅定しました。九頭龍王が現れ、頂上では姫神の菩薩、他の二山では大己貴神と白山別山大行事が現れ、深く礼拝されました。泰澄開創の社寺は多くありますが、同年秋に岩屋寺(那谷寺)を開き、弟子とともに粟津温泉を養老2年(718年)に発見し、薬師如来をお祀りしました。天平2年(730年)に吉野山現光寺で法相宗の山林修行「求聞持法(ぐもんじほう)」と「自然智行」を実践しました。神護景雲元年(767年)越知山大谷寺の岩窟で86歳で遷化されました。

寛和2年(986年)、右大臣藤原兼家の謀事によって出家させられ、書写山円教寺や比叡山で修行、熊野へも巡拝、永祚(えいそ)元年(989年)北陸へ旅立たれました。同行する者は3名の従臣だけでした。まず白山へ登られ、次いで小松地域の寺を訪ねられ、最後に岩屋寺(那谷寺)を参詣されました。花山法皇は(西国三十三所の)那智山と谷汲山からそれぞれ一文字ずつ「那」と「谷」を取り、那谷寺と改名されたと伝えられています。

那谷寺は温谷寺(うだにでら)・栄谷寺(さかえだにでら)とともに、天台宗白山三ヶ寺と言われました。後に「源平盛衰記」「白山記」などでは、那谷寺の寺院名があります。

那谷の地はオパール、瑪瑙、水晶などが産出しており、那谷寺の観音堂には12個の瑪瑙を有していました。これを周防国(山口県)の大内義隆が所望したため、真宗本願寺の証如が那谷寺へ依頼、5個の瑪瑙を送り、遣明船で明国へと献上しました。南北朝と戦国時代に那谷寺は3度も焼かれましたが、僧義円や霊山寺即伝などが訪れ、密教修験の道場となっています。密教修験と真宗は対立関係にありましたが、那谷寺は証如と結びついていたようです。

戦国・安土桃山時代に那谷寺は火災に遭ったため、衰退していました。その中で、寛永17年(1640年)春、黄門職として小松城に隠居していた前田利常公が粟津付近にお鷹狩りに来て、那谷寺を見つけました。寛永19年(1642年)にかけて集中して、本殿、唐門、拝殿、三重塔、護摩堂、鐘楼堂および庭園などを造りました。また、復興の折に那谷に通じる参道も整備、両側に杉の木を植えたことから「杉の木街道」と称されました。今も粟津温泉に利常公お手植えの杉「黄門杉」が残されています。

万治元年(1658年)10月、利常公が66歳で逝去。利常公没後、那谷寺は大聖寺藩の管轄となり、また同藩寺社方触頭となったため、那谷寺文書に「宗門改帳」「人別帳」「御触留記」が残されています。