後の那谷寺となるイワヤで「ウマレキヨマル」儀式として胎内くぐりが行なわれる。また、那谷町で碧玉産出。 | |
崇神(すじん)天皇が勅して加賀国白山比咩神社の神地を定めて神戸を置き、白山比咩神社誕生。 |
8月、白山噴火。(記録に残る最古の噴火) | |
泰澄、天女に白山へ導かれ、2人の行者とともに白山禅頂を敢行。禅定時、九頭竜王が示現、続いて観世音菩薩、小白山別山大行事、大己貴神が示現。同年秋、白山信仰である那谷寺開創。養老年間は「岩屋寺」と号す。 | |
泰澄、行基とともに渡来僧の神叡に「自然智」を学び、その行を実践する。 |
出家した花山法皇、西国巡礼ののち北陸へ行幸されたと推定。その際、岩屋寺を「那谷寺」と改名したとの伝説が残る。(「白山之記」より) | |
白山信仰の中心をなす平泉寺が天台宗比叡山の末寺になり、それにともない那谷寺も叡山の末寺となり、天台宗となる。 | |
白山宮最古の縁起「白山之記」成立。その中に「白山三カ寺(那谷寺・栄谷寺・温谷寺)」の記述が見られる。 |
北朝に味方した加賀守護富樫高家、那谷寺、那谷村民たちが南朝の大軍と決死で戦い、焼け落ちる。 | |
九州の大内義隆より那谷寺観音堂の瑪瑙を依頼され、5個納品。再び依頼されるも深秘であるため断っている。 | |
加賀一向一揆軍に対し、福井の朝倉景隆が鎮圧。その際、那谷寺、馬場、長久寺、粟津温泉、粟津保を全て放火される。その後、信長軍(柴田勝家)に占拠される。 |
那谷寺は森林のみ残るが、大聖寺城建城の用材として伐採される。後水尾天皇が加州白山禅頂、権現七社、惣長束職の勅許を与え、神事祭礼などが再興する。 |
那谷寺庫裏および書院が再建。元は不動院本坊で、前田利常公の寄進と思われる。利常公が滞在された「お成りの間」がある。 | |
那谷寺中興開山定憲(初代住職)が前田利常公の名を受け「那谷寺縁起」を著す。定憲は富山千光寺(真言宗)の出身であり、那谷寺は高野山真言宗となる。 同年、前田利常公が本殿、唐門、拝殿、三重塔、護摩堂、鐘楼堂、庭園などを作る。 この頃、今江から那谷寺まで7間ごとに両側に杉を植えて参道を整備。命じた前田利常公も法師旅館前で自ら杉を植えた。この杉は利常公の官位にならって「黄門杉」と呼ばれる。 |
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8月に松尾芭蕉が参詣し、「石山の石より白し秋の風」と吟ずる。 同年、明の黄檗山高泉禅師が訪問、「自生山那谷寺記」を記し、境内の岩山を「奇岩遊仙境」と名付ける。 |
華王院が廃され、不動院が残る。 | |
小松宮のとりなしや尊王派であったことから、神仏分離はなく白山宮が那谷寺境内に祀られる。 | |
不動院観音堂の再建工事開始。 | |
小松宮殿下、那谷寺巡覧。那谷寺が安堵されて2年後、イギリス国王エドワード7世の戴冠式に臨席し、那谷産のアメジストを贈る。 |
小堀遠州が指導し、別部卜斉が作った庭園が国名勝に指定される。利常公の茶室は仙叟作。 |
本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼堂が重要文化財に指定される。 | |
書院及び庫裏が重要文化財に指定される。 | |
旧新保村春木家を「普門閣」として境内に移築。 | |
現住職、木崎馨山が晋山。開山堂華王殿新築・再建し落慶式が行われる。 | |
琉美園庭園 作庭・復元。 | |
社会福祉法人那谷寺光生会(現:社会福祉法人自生園)設立。 | |
養護盲老人ホーム自生園設置。 |
金堂華王殿落慶法要・御開帳。 | |
社会貢献活動として公益事業「那谷寺清水基金」を開始。 | |
「おくの細道」の風景地、那谷寺境内(奇石)が国名勝指定となる。 | |
那谷寺開創1300年祭を開催。 |