現在、宝物館は、都合により閉鎖しております。再開時期は未定です。
江戸時代 1750年
加賀八家のひとつであり、前田家家老の横山家が代々元服に使用した太刀。なめらかな白の鮫皮、鞘と太刀掛には螺鈿細工が施され、儀仗太刀の様式を成しています。鞘に十字が隠すように施されてあり、西洋の剣を模されているのも特徴的です。刃は美州兼元作、特別保存。
江戸時代後期 1804年
測量家の伊能忠敬が幕府の支援を得て全国の測量をし、17年間の実測を元に「大日本沿海輿地全図」を作成。その際、忠敬は北陸へ4次測量として享和3年(1803年)に訪れ、6月24日から加賀の測量を、7月5日から二手に分かれて能登の計測を行ない、関東東北北陸の地図を8月に作成しました。なおこの地図は、官軍が大正時代まで実際に使用していたとも言われています。
江戸時代前期 1640年
加賀藩250年の歴史の礎となった、加賀2代藩主であり前田家3代目、前田利常公の肖像です。寛永3年(1626年)8月に従三位権中納言に任ぜられた後、金沢城を嫡男の光高に譲って小松城に移り、那谷寺を中興しました。「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの名君として名高く、当寺に伝わる肖像画は利常公在世時代における唯一の肖像画です。
平安時代後期 1100年頃
金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅を合わせて両界曼荼羅と呼ばれています。大日如来を中央に配し、個々の仏の姿が一定の秩序にしたがって配置され、荘厳な図を成しています。東寺の伝真言院曼荼羅の約半分の大きさですが、三副本彩色曼荼羅で同じ構図。北陸地方に現存する両界曼荼羅では最古のものですが、保存状態は良好です。
室町時代末
千利休が所持していたもので、のちに秀吉公御物となった古芦屋(茶釜)。耳の部分が猿の形をしているのでこの名が付きました。ぽってりとした胴体に霰がびっしりと敷き詰められ、見るほどに心をなごませます。利休が「さるの釜」と箱書きし、秀吉が由来を書き付けた箱蓋がありますが、風炉は現存していません。
江戸時代初期
江戸時代の狩野派を代表する絵師、狩野探幽画による花鳥図の掛け軸です。余白をいかしで楚々と描かれた花鳥は、見るほどに味わいがあります。生け花の教科書としても描かれたと伝えられており、華道家元にも狩野探幽が描いた花鳥図が伝わるとも言われています。当寺に伝わるものは一般の生け花よりも、仏花として描かれたものが多く見られます。
鎌倉時代 1185~1333年
日本では一対で作られた作品が多く、風神・雷神も一対の作品です。自然現象に対する恐れと尊敬を込め、除災の神として風と雷を神格化して信仰されてきました。鬼形で表現された姿は実に躍動的で、仏像の持つ魅力を存分に感じさせます。小ぶりですが引き締まった体を持ち、鎌倉時代のリアリズムな彫刻の特徴が現れています。
江戸時代初期 1600年頃
源平合戦の「ひよどり越え」「壇之浦の合戦」などを画題にされた屏風です。平家物語のエピソードも描き込まれており、細かく見ると様々な場面が躍動的に、念入りに描かれています。多人数が入り乱れる戦記ものでありながら、屏風内では戦死者がひとりも居ない状態なのも珍しく、対となるもう一隻の屏風があるとも言われています。